新垣 英隆

arakaki hidetaka

53歳、今が一番若い!

ラジオ『FMやんばる』に出演

『やんばる』近くの大宜味村に住み、自然環境もまた健康増進の効果が高く、学ぶ場としても適地です』と、熱く語った笑顔です

 28年間、発注者側として公共土木の経験を通じ、行政の内側から社会を見てきた。

 災害は常に発生する中、社会は低迷をたどり、組織は少子高齢化の大きな課題の前に動けず、社員が疲弊していく姿が増えてきた。しかし、仕事、業務は増える一方。

 人のもつ可能性を奪わせない社会とは、組織とは、働く意味とはなど、強く想い、考え、学び続けながら実践し、たどり着いた手段が『認知科学に基づくコーチング』。

 人の原理原則を理解する重大さ、行動、活動するための自信するマインドに影響を与える『言葉の力』の大切さを知る。この手段を活用し、課題、悩みを突破したい個人、組織、チームの伴走者として一緒に山(GOAL)を登りたいと独立した。

〇家族構成 妻(いっしょに経営)、子供2人(長女 環境会社勤務、長男 アフィリエイター)

〇経歴 首里高校卒、琉球大学土木工学科卒

 沖縄総合事務局開発建設部入社   1995(H7)~2022(R4)

 那覇港・平良港・中城湾港/首里城復元/泊大橋改良/那覇空港増設/北海道苫小牧東港改良/の監督、調査に携わりながら、管理職として心理学、行動学などの必要性を感じ、独学しながら部下育成、チーム運営、いかに楽しく仕事をするかに努める。

〇資格 コーチングプロフェッショナル、森林セラピスト、一級土木施工管理技士


新垣英隆ヒストリー


1971年

日本が高度経済成長期の真っ只中、沖縄県那覇市で産声を上げる


1978年

ピカピカの1年生にして、なぜか万引きをして先生にビンタをもらう。今でも、あの当たりまえ感になった気持ちが、よくわからない。。。

 

1983年

首里中学校に入り、バスケット部に入部。2年に副部長に選ばれるもサボってしまい、先輩からボコられ、同級生からいじめられる。3年最後まで、同級生からの無視や悪口のいじめは続くも、辞めずに部活を終えた。ブレイクダンスが流行り、校舎ベランダで休み時間にムーンウォークを極める。

 

1986年

進学校であった首里高校に「合格できるから大丈夫!」と先生に背中を押され、不安だったが無事に合格する。サッカー部に入り、ゴールキーパーをした。指や腕、足に毎日けがをする毎日に、お風呂がつらかった。幸い、いじめはなかったが、毎日、卒業したOB先輩からの指導が嫌だった。

 

1989年

琉球大学を受験するも、落ちて一浪する。


1990年

教育学部を第一志望で受けるも、一次試験結果が思わしくなく、第二志望の土木工学部に変更し、試験し、合格する。第一志望でなかったので、両親には行かないと告げるも、「せっかく受かったのだから」とまた、背中を押してもらい入学。今なら言える。あの時、引き留めてくれて、ありがとう。


1991年~1993年

初めて喫茶店でバイトをする。バイト生なのに店長に間違われるくらい老け顔で根暗だった自分を、ちょっとやんちゃな同級生2人の厨房料理人に誘われ、スロット、パチンコ、ボーリング、ドライブと引っ張ってくれた。2人のためにも根暗だった性格を変えようとすごく努力し、明るい性格に変わった。だから言える、人は変われる。


1994年

就職氷河期の時代であったため、留年して公務員試験を1年がんばる。


1995年

琉球大学を卒業し、公務員試験を突破し、内閣府沖縄総合事務局へ入社。いきなり宮古島へ転勤し、港湾整備の公務員スタート。業務艇の船長の上地さんという人生の師匠と出会う。お酒も遊びも一生懸命でいて、若いわたしや職員に対し、真摯かつ愛情をもって叱ってくれたり、はげましてくれた。

 

 

1997年

宮古島のゴルフ場で受付をしていた女性にビビッとくる。現在の妻(当時20)と結婚する。半年も付き合ってない、まさにビビッと結婚だった。

 

1998年

沖縄に一緒に異動して、新婚旅行に行こうかと思った頃、コウノトリが長女を運んできた。うれしかった。奥さんは20歳で結婚、妊娠する。わたしは、26歳でした。奥さんの成人式の写真が結婚写真になりました。

 

1999年

長女なつみが誕生

未熟児で生まれて小さかったが、とても生命力あふれたエネルギーがあった。

 

2002年

長男りゅういちが誕生。おかあさんに甘えん坊で、なかなかおんぶや抱っこから離れない甘えん坊。

 

2009年

北海道開発建設部 室蘭開発建設部 苫小牧港湾事務所へ家族で転勤し、大自然の豊かさ、でっかさを家族全員で知る。道の駅スタンプをまわるのがすごく楽しい小旅行だった。温泉にも入って、初雪を思わず食べて注意されたり、子供と雪合戦していたら、雪の中に石が入っていて、わたしの後ろにあった倉庫のガラスを割れる。それぐらい、雪経験がない沖縄県民にとってはすべてが新しい経験だった。赤信号でブレーキがきかず寿命が縮む思いもしたが(笑)

食の北海道というだけに、とにかくとうもろこし、野菜、魚、カニ、お酒、すべてがおいしく、苫小牧港湾事務所の職員もみんなすてきな人ばかりで、毎週のようにお酒を飲みかわし、仕事も一生懸命でき最高でした。


2010年

苫小牧港湾所長が韓国のプサン、巨大港湾施設を視察しに行くということで同行して、世界の港湾規模にどぎもを抜かれた。そりゃ、日本は負けるわと、港湾の事業をしていたわたしは一瞬にして目からうろこがボロボロでした。

 

2011年

3月11日東日本大震災

北海道から沖縄への引き継ぎのため一時出張中に、東日本大震災が発生し、北海道にいた奥さんと子供が公園高台に逃げたとの連絡後、通信がパンクし連絡がとれずとても心配した。北海道に戻り、各地の津波被災の状況を調べ、緊急物資の搬送などを行う。ほんとに、信じられない光景であった。


4月

沖縄記念公園事務所に異動し、首里城復元事業に携わることで復元や歴史の楽しさを知る。

 

2013年

那覇空港 新滑走路事業の空港事業に携わり、共用しながらの工事の難しさを知るも、関係者に恵まれ、楽しさもあった。しかし、初めての管理職となり、部下をもち、育成の大変さを知り、このときから、人間関係や心に対する改善や維持の必要があったため独学が始まる。それは、忙しい職場内でメンタル不調や、人間関係のぎくしゃくがひどく、これをどうにか改善しようと必死だった。

 

2014年

沖縄県北部にある大宜味村の中古物件と場所に一目ぼれして3日で購入を決める。4月から子供を中学、高校の入学に合わせ引っ越す。世界自然遺産「やんばる」の自然豊かな海と山に囲まれた環境は、わたしの心身をすごく癒してもらうもので、これが支えとなって仕事ができていた。こどもたちも、奥さんものびのびと静かな環境を体感することは、北海道で生活をした経験を懐かしむものだと、家族みんなで思うのであった。


 2019

令和元年に完成した首里城だったが、同年の10月31日にまさかの首里城火災によって消失。2000年に復元をはじめ、やっと完成した瞬間に起こった出来事は、多くの関係者と県民にショックを与え、わたしも焼け後を見て、涙を流した。

 

2023年3月

公務員28年間にピリオドを打つ。理由は、隠ぺい体質や不正温床に麻痺した組織に強い危機感と、自分自身のメンタルも危険と判断し、自己都合で退職する。最後の2年間は、硫黄島の軽石災害に従事し、最後までやり遂げた充実感だった。組織が本気に取り組まないのは、つぶれない国という組織だから、職員は潰れてもいいのか?という、憤りも強くあり、人を大切にした仕事のやり方があるはずだとずっと考えていた。

 

 

2023年4月~

やんばるwellbe として人材開発・組織開発のフリーコンサルタントとして起業する。

公務員時代の闇であった人間関係や心、倫理など多くの独学や、これまでの部下へのフォロー実践の経験、自分の体験を活かして、働く多くの人の中にある才能や能力、可能性を最大化させることこそが使命だと事業をスタートする。対話による相互理解の大切さや、中間管理職が陥る罠、人材不足という社会的な罠にひっかからない方法、自分を好きになる、自分を変える方法など、前進するために有効な「人の原理原則を押さえたコーチング」を手段とし、企業や個人、子供に研修やコーチング、創造学習を実施しています。


2024月~

やんばるwellbe として人材開発・組織開発のフリーコンサルタントをしながら、NPOグリーンアース兼務をスタートしました。建設業に関して、組織の改革が待ったなしの状態であるものの、変化することができないため、グリーンアースにて研修を行い、組織倫理の見直しがなぜ必要なのかをわかりやすく伝えるものです。

 

「どうすれば~」のたった一言だけでも、未来へ希望をもつことができる、人の原理原則を押さえることで、変わりたくない本能を、変わりたいに変化させれば、一人ひとりがもつ可能性、能力を最大限に引き出すことで、楽しく生きる社会をつくっていきます。